専用エレベーターは、そのままペントハウスの中へ開く。三日ぶりに、あなたは開かなければよかったとさえ思った。
五分前まで、バーケットはエレベーターであなたの後ろに立ち、片手を腰に添えて笑っていた。週末のほとんどをパラソルの下で過ごしたのに、オソリー諸島で日焼けしてしまったのだと。あなたのスーツケースの持ち手には、ポート・アッシュラインのタグがまだ巻きついている。彼の一泊用のバッグは肩にかけられていた。
完璧なバレンタインの週末だった。
そのとき、あなたの家の中から女の声が聞こえる。
「バーケット? 帰ってきたの?」
あなたは立ち止まる。
バーケットも、あなたの後ろで足を止める。
玄関のコンソールの脇に、高そうなスーツケースが二つ。どちらもあなたのものじゃない。
あなたが口を開く前に、キッチンの角から女がひとり現れる。あなたのワイングラスを持って。
素足。 プラチナブロンドの髪。
そして、太ももの半ばまで垂れた、バーケットの古いクリムゾンのホレンデンのパーカー。
オノーラ・ブルックハウス。
やっぱりね。
彼女はバーケットを見た瞬間に微笑む。あなたにではなく。
「やっと帰ってきた」
まるで、彼が自分のもとへ帰ってくるのをずっと待っていたかのように、彼女は部屋を横切る。
「二人とも、もう一泊することにしたのかと思ってた」
バーケットの表情が変わる。ほんのわずかに。それで十分だった。
あなたは彼のほうへ顔を向ける。
「バーケット?」
オノーラは彼のミドルネームを、寄宿学校の頃からずっとそう呼んできた人の気安さで口にする。ほかの誰もが、ウィンフィールド・バーケット・ウィットボーンを『ウィン』と呼ぶ。オノーラだけが、十五年間ずっと彼を「バーケット」と呼んできた。
バーケットは鼻から息を吐く。
「わかった。怒る前に聞いてくれ——」
胃がずしりと沈む。
オノーラは二人を見比べて、小さく笑う。
「あら、彼、話してなかったの」
彼女は軽い調子で言う。どこか愛おしむように。
バーケットはバッグを下ろす。
「オノーラの婚約が、金曜に終わったんだ」
「木曜よ」
オノーラはワインをもうひと口含みながら、彼を訂正する。
「正確にはね」
バーケットは彼女をちらりと見る。
「そうだった。木曜だ」
オノーラは彼にさっと微笑みかける。二人のあいだを、何か古いものが通り過ぎる。
それからバーケットはあなたに向き直る。
「彼女、泊まる場所が必要だったんだ」
あなたはスーツケースを見つめる。次にパーカーを。そして夫を。
「それで、鍵を渡したの?」
バーケットが答えるより先に、オノーラが答える。
「バーケットがドアマンに言ってくれたの。私を通してあげてって」
バーケットは首の後ろをさする。
「ちゃんと話すつもりだったんだ」
「いつ?」
オノーラはキッチンアイランドに腰を預ける。ペントハウスのキッチンアイランド。あなたのキッチンアイランドに。
「彼を責めないで」
まるで、あなたがもう理不尽なことを言っているかのように、彼女は言う。
「泣きながら電話したの。ほとんど前触れもなくて」
あなたは彼女を見る。
彼女は微笑む。 温かく、丁寧に。 どこまでも落ち着き払って。
バーケットの両親は昔からオノーラを溺愛している。彼の母親はクリスマスの食卓で、彼女のことを『いい家柄の出』と呼んだことがある。あの席にいたほかの誰にとっても、それはたいしてぞっとする話ではなかったらしい。
オノーラはただ笑って、こう言った。
「ウィットボーン夫人、歯を調べる前に、せめて夕食をごちそうしてくださいな」
バーケットの父親はスコッチを噴きそうになるほど笑い、母親は、それでいっそう彼女を気に入った。
オノーラはワイングラスを置く。
「ゲストルームに引っ込んでるから。本当に。いるって気づかないくらいにするわ」
あなたの視線が、彼女の胸元のHOLLENDENの文字に落ちる。バーケットは、大学時代の写真の半分でそのパーカーを着ていた。結婚してから、あなたは一度もそれを見たことがない。
オノーラは、あなたの視線の先に気づく。 彼女の笑みが深くなる。
「これ?」
彼女は裾を軽くつまむ。
「バーケットが二年生のときにくれたの。まだ着られるなんて信じられない」
バーケットが本当に笑う。
「うわ、まだ持ってたのか?」
「当たり前でしょ」
彼女は、答えなんてわかりきっているという顔で彼を見る。
それから、あなたに視線を戻す。
「気にしないでね。バーケットが、自分の家だと思ってくつろいでいいって言ってくれたの」
バーケットがあなたのほうへ一歩近づく。
「一時的なことだよ」
オノーラはまたワインを手に取る。
「ほんとに一時的」
ひと呼吸。それから、何でもない日常のことを思い出したかのように。
「あ、バーケット、今夜ちょっと人を呼ぶことにしたの」
バーケットが瞬きをする。
「今夜?」
「コーネリアとビクスビーとユースタスと、あと二人くらい。今夜はシンジンのことを考えてひとりで座ってるなんてできないもの」
あなたはゆっくりと、彼女のほうへ顔を向ける。
オノーラが気づく。
「なに?」
「ここに人を呼んだの?」
彼女は、その質問が本当にわからないという顔をする。それから、バーケットに目をやる。
「何か問題ある?」
あなたにではなく。バーケットに向けて。
あなたの夫はためらう。
オノーラの表情が、すぐに和らぐ。
「お願い、バーケット。今夜はほんとにひとりになりたくないの」
やっぱりこうなる。バーケットがあなたを見る。そして、どういうわけか、どうしようもなく、あなたにはもうわかっている。二人のうちどちらが折れるよう求められるのかが。
それが最初の夜だった。オノーラの友人たちがやってきた。聞いていた五人ではなく、六人も。誰かがバーケットがとっておいたシャンパンを開け、別の誰かが寝室まで聞こえるほどの大音量で音楽をかけた。オノーラは夜のほとんどを、あなたのセクショナルソファの隅に丸まって過ごし、その隣でバーケットは寄宿学校時代の昔話をしていた。
彼女は二度泣いて、三度笑って、あなたの苛立ちの一つひとつを、なぜか冷たい仕打ちのように見せてしまった。あなたが不機嫌そうにするたび、オノーラはすぐに気づいて、さらに優しくなった。
「うるさかった? 帰ったほうがいい?」
そして、あなたが答える前に、彼女は傷ついたような小さな笑みでバーケットを見るのだった。
「ああ、やっぱり悪い考えだったわ。バーケット、彼女は嫌がるって言ったでしょ」
バーケットは一晩中、彼女をなだめていた。あなたは一晩中、理不尽な人間に見えていた。
それが一日目だった。
一か月経った今も、オノーラはここにいる。
彼女のスーツケースは、二週目のどこかで姿を消した。出ていったからではない。荷ほどきをしたからだ。バーケットの洗面所のシンクには、今ではプラチナブロンドの髪が落ちている。彼女のスキンケア用品はゲスト用のバスルームの半分を占領し、いつの間にかあなたのバスルームにまで染み出していた。玄関のそばには三足のヒールが並び、彼女のクリーニングはあなたのと一緒に上がってくる。スタッフは彼女のコーヒーの好みを知っているし、ドアマンは彼女の友人たちの顔を覚えている。
いつの間にか、「数日だけ」は「身の振り方が決まるまで」に変わった。その言葉をもう何度聞いたか、叫びだしたくなるほどだ。
今夜、あなたはキッチンに立って、二時間近くかけて作った夕食を見つめている。そこへバーケットが入ってくる。少し遅れて、オノーラが続く。またバーケットの古いクリムゾンのホレンデンのパーカーを着て。まるでそれが彼女の定番の服になってしまったかのように。
彼女はハンドバッグをカウンターに置き、彼を見る。
「バーケット、タイ料理を頼んでもいい? 今夜は手作りって気分じゃないの」
あなたは動きを止める。バーケットはコンロを見て、それからあなたを見る。そこでようやくオノーラも彼の視線を追い、夕食に気づいたようだった。
「あ」
彼女は半秒だけ間を置き、申し訳なさそうな小さな笑みをあなたに向ける。
「でも、ぜひ食べてね」
バーケットは顎をさする。
「オノーラ」
「なに?」
彼女はあなたではなく、彼を見る。
「彼女の料理をけなしてるわけじゃないわ」
「彼女が夕食を作ったあとに入ってきて、出前を頼もうって言ったんだぞ」
オノーラの眉が上がる。
「彼女が作ってるなんて知らなかったもの」
「一時間前に仕込んでるところを見てただろ」
彼女はやっとあなたのほうを向く。まだ落ち着いたまま、にこやかに。
「キッチンにいるのは見たわ。でも、それでみんなが食べなきゃいけないことになるなんて思わなかった」
あなたはサービングスプーンを握る手に力を込める。バーケットがあなたの名前を静かに呼ぶ。「やめてくれ」という意味のあの声で。オノーラにもそれが聞こえている。
「バーケット、本当に、これで大ごとになるなら、もういいの。私も食べるわ」
あなたは彼女を見つめる。オノーラは、これは自分にとってもしんどいことだと言わんばかりにため息をつく。
「私なりに頑張ってるのに」
「頑張ってる?」
「そうよ。邪魔にならないようにしてるし、ゲストルームで寝てるし、ほとんど何も使ってない」
あなたの視線がワインラックへ走る。三本、なくなっている。
オノーラは続ける。
「何かするときは、いつもバーケットに聞いてるわ」
「それが問題なの」
彼女は瞬きをする。
「何が?」
「あなたがバーケットに聞くこと」
オノーラは、あなたがまるで筋の通らないことを言ったかのようにあなたを見つめ、それから短く、信じられないという笑いを漏らす。
「彼が私をここに呼んだのよ」
「ここは私の家でもある」
「違うなんて言ってないわ」
「ここで起きることに意見を言うのに、彼の許可が要るみたいな態度じゃない」
オノーラの表情が、ほんのわずかに変わる。今度は傷ついた顔だ。
「へえ」
バーケットが息を吐く。
「オノーラ——」
「ううん、いいの」
彼女は片手を上げる。
「わかってるから」
次に来る言葉が、もうわかっていて嫌になる。
彼女はバーケットのほうを向く。
「あなたの奥さん、私にここにいてほしくないんですって」
やっぱりこうなる。
バーケットがあなたを見る。あなたも彼を見返す。
「オノーラ、そういう言い方はやめてって、何度もお願いしてるでしょう」
「どういう言い方?」
「この家で起きることを決めるのは、彼ひとりだけみたいな言い方」
オノーラは本当にわからないという顔をする。それからペントハウスの中を見回す。
「だって、ここはバーケットのものでしょ」
キッチンに沈黙が落ちる。バーケットが彼女のほうへ顔を向ける。
「オノーラ」
「なに? そうでしょ」
あなたの中で何かがぷつりと切れる。オノーラは、あなたの表情にすぐ気づく。
「やだ、どうしよう。言い方が悪かったわ」
「そう?」
「そうよ」
彼女はもう一度バーケットを見る。
「法律上の話よ、家族信託のせいで。彼女がここに住んでないって言いたかったわけじゃないの」
あなたの全身が凍りつく。バーケットも同じだ。そしてオノーラは、一瞬遅れて、自分があまりにも多くを話してしまったことに気づく。
あなたは夫を見る。
「どうして彼女がそれを知ってるの?」
「バーケットが教えてくれたの」
バーケットは半秒だけ目を閉じる。
あなたは笑う。でも、それは自分の声には聞こえない。
「そう。そうでしょうね」
オノーラの口元がこわばる。
「そんなふうに大ごとにしないでよ」
「あなた、私の家の所有の仕組みを知ってるのね」
「だって、バーケットと私は話をするもの」
「私の婚前契約のことも?」
彼女の視線がバーケットへ流れる。それだけで答えには十分だった。
バーケットが一歩近づく。
「細かいことは何も話してない」
「愚痴を聞いてもらってただけよ」
オノーラがすかさず付け足す。
あなたは顔を向ける。
「何の?」
二人とも、すぐには答えない。バーケットはあなたとオノーラを見比べ、顎を引き締めて、やがて「もういい」と言う。声は抑えているが、強い。
彼は先にあなたのほうへ歩み寄る。
「彼女がそこまで知っているべきじゃなかった。俺がなんとかする」
ほんの一瞬、美しいほどの安堵があなたを襲う。
「オノーラ——」
「いや」
バーケットが彼女を遮る。
「一線を越えたぞ」
オノーラの顔色がすぐに変わる。彼女は床に目を落とし、声が小さくなる。
「私に出ていってほしい?」
バーケットが彼女のほうを向く。
彼より先に、あなたが答える。
「ええ」
沈黙。
オノーラはバーケットを見る。
あなたではなく。
バーケットが息を吐く。
「オノーラ、彼女の言うことは聞かなくていい」
胃がずしりと沈む。
彼はあなたに向き直る。
「彼女は動揺してるんだ」
「違う。動揺してない」
「してるよ」
「彼女に出ていってほしいの」
バーケットの表情が硬くなる。
「彼女には行く場所がないんだ」
「それは私の問題じゃない」
オノーラは傷ついた顔をする。
「バーケット、いいの。ホテルを取るわ」
「だめだ」
彼はそれを即座に言う。あまりにも即座に。
オノーラが彼を見る。あなたも。バーケットは片手で顔をこする。
「まさにこれを言ってるんだ。みんな感情的になってて、誰もまともに考えられてない。一回ひどい夕食になったくらいで、夜中に親友を通りに放り出すつもりはない」
「一回ひどい夕食?」
バーケットは声を落とす。
「今ここでこの話はしない」
オノーラはハンドバッグに手を伸ばす。
「私、行くわ」
バーケットが彼女の手首を軽くつかむ。
「だめだ」
彼女は彼の手を見下ろし、彼を見上げ、それからあなたに目をやる。気まずい一瞬、部屋の空気がまた変わる。どういうわけか、自分の家なのに、あなたのほうが部外者だった。
バーケットは彼女の手首を放す。
「今夜は誰も出ていかない」
オノーラは最後にもう一度、申し訳なさそうな目をあなたに向ける。またしても、あなたのほうが冷たい人間のような気分にさせる、あの目で。
「ほらね。だから言ってるのよ、あなたは私にいてほしくないんだって」
バーケットは目を閉じる。
あなたは二人を見つめる。
オノーラの声がやわらぐ。
「バーケット……本当に、私にいてほしい?」
彼は彼女を見る。
そして今、あなたは決めなければならない。彼の答えを聞きたいのかどうかを。