エルリング・トルルンドは雨で前がほとんど見えないほど激しく降る中、道路を進んでいる。
ヘルメットのバイザーを水が流れ落ちるなか、彼はダークグリーンのクルーザーを静まりかえったハローベックの通りで慎重に走らせる。
時刻は夜10時を少し過ぎたころ。
長い一日が終わったところだ。
バイク3台を修理し、ヤギ2頭を捕まえ、獣医の予約をひとつ入れた。さらに、ソレルに
「バイクの上では寝られない」
と説得するのに一時間近くかかった。
まったく、あの猫め。
ヘルメットの下で小さな笑みがこぼれる。
「9年か…」
エンジンの音にまぎれ、誰にともなくつぶやく。
「9年経っても、やっぱり猫の勝ちだな。」
この混沌とした日々が彼は大好きだ。
本当に。
けれど時々――特にこんな晩、雨が道を叩き、家の灯りが闇に暖かく揺らめくのを眺めるとき――胸に奇妙な空虚さを覚える。
たまには家で誰かが待っていてくれたらな。
彼はゆるく頭を振る。
ブラムもいる。ソレルも。そしてたぶんネトルもだ、あのヤギまた食べちゃいけないものを食べたから。
それで十分だ――そう自分に言い聞かせる。
そう思うことにしている。
そこで、道路脇に何かを見つける。
人影。
その隣に小さな、傷ついた犬。
エルリングはすぐブレーキをかける。
「あぁ、やっちゃったな。」
彼はバイクを安全な場所に止め、ヘルメットを脱ぐ。
長い銅色の髪が湿って肩へ落ちる。頭の銀白色の筋はヘッドライトにほのかに輝く。
状況を慎重に確認するエルリング。
そしてゆっくり歩み寄る。
「やあ。」
彼の声は低く、しわがれ、それでいて驚くほど優しい。
「ここは大丈夫ですか?」
あなたから数歩離れた場所でしゃがみ、威圧感を与えないようにする。
氷のように灰色のまなざしが負傷した動物をちらりと見る。
濡れた草の上に小さな震える犬が横たわっている。
あぁ、小さな子よ。
彼の胸にあの馴染みの痛みが走る。
助けを求める動物を見るたびに湧き上がる痛みだ。
「やあ、お友だち。」
犬にそうささやきかける。
「大丈夫だよ。もう来たからね。」
ゆっくりと革手袋をはずし、犬にやさしく話し続ける。
そしてあなたを振り返る。
「僕はエルリング。ここから数キロ離れたところで動物の保護施設をやってます。」
控えめな微笑みを浮かべる。
「見た目ほど怖くないって約束しますよ。」
犬を指して身振りする。
「この仔を見ても良いですか?」
負傷した犬の様子をうかがいながら、近付く前に待つ。
「よく頑張ったね、君。」
大きな手を慎重に近づける。
この犬には迅速な治療が必要だ。エルリングは携帯電話を取り出し、獣医の夜間救急に連絡して症状を伝え、できるだけ優しい運搬方法の指示を受け取る。
そしてバイクのバッグから清潔な緊急用ブランケットを取り出す。
「工房の車に運搬用のクレートがある。友人に持ってきてもらえる。」
彼はあなたを見る。
「無理に運ぶ必要はない。獣医とも話した。」
声は少し静かになる。
「付き添ってくれて、ありがとう。」
しばし、ただあなたを見つめる。
押しつけがましさも要求もなく。
ただ、あたたかく誠実なまなざしで。
そのまま通り過ぎることもできたのに。
でも君はここにいる。
胸の奥で、長いこと感じなかった引力を覚える。
やがて、エルリングはまだ雨の中、ひざまずき続けている。今では革ジャンは犬のための風除けとして横に置かれ、緊急用ブランケットが冷えをふせぐ。
ベストは裸の胸の上で開けられ、雨水が肩からタトゥーの上を流れ落ちる。
彼は気にも留めていない様子だ。
「昔、母親が言っていたんだ。『小さい心ほど、大きな愛が必要なのよ』って。」
どこか寂しげに微笑む。
「犬も猫も、時にはカラスまで、何でも家に連れてきてた。」
深くて静かな笑い。
「父親は、いつか動物園を開くんじゃないかって思い始めてたよ。」
目がやさしさを帯びる。
「この子も、母ならきっとその場で連れ帰ってただろうな。」
犬に視線を落とす。
ママならこの子を好きになってたよ。
突然、その思いが胸を打つ。
喉が一瞬、締め付けられる。
エルリングは咳払いをひとつ。
「ごめんね。」
照れくさそうに笑う。
「動物のことになると、すぐに感傷的になってしまうんだ。」
本当は“すぐ”どころじゃないだろ。ヤギが手術後また歩けるようになった時だって泣いたくせに。
自分に苦笑して頭を振る。
またあなたに向き直る。
「もし寒かったら、無理しないで。僕がここで一緒にいられるから。」
さらにやさしく声をかける。
「でも、もし一緒に残ってくれるなら…心強いよ。」
友人の車がようやく到着すると、エルリングは立ち上がる。
濡れたアスファルトの上で長時間ひざまずいていただけに膝が抗議する。
「まいったなぁ、もう歳だ。」
とつぶやく。
イヴァルが車から降りてきて、水浸しの友人を見る。
「くま(Bear)、お前まるで溺れたノースマンみたいだな。」
エルリングはニヤリとする。
「ありがとう。お前もひどい顔だぞ。」
イヴァルは笑いながら、トランクからクレートや必要な備品を取り出す。
2人で、獣医の指示に従い安全に犬を運ぶ。
そしてエルリングは再びあなたに向かい合う。
「これからこの子を夜間救急へ運ぶ。」
濡れた髪をかき分ける。
ヘッドライトの光の中、彼の巨大な姿が浮かび上がる。
広い肩。
刺青の腕。
銅色の髪。
そして、どこまでも優しい目。
「もし良かったら、君も一緒にどうぞ。イヴァルが運転してくれるし、車にも余裕がある。」
一瞬ためらう。
「もちろん、無理にとは言わないよ。」
彼の頬が少し赤くなる。
最悪だよ、ベア。これじゃあまるで見知らぬ人にデート誘うみたいじゃないか。犬もいるのに、雨の中で。
照れくさそうに首の後ろをかく。
「ただ…君が見つけてくれた子だし、どうなったか知りたいかもと思って。」
小さく、不器用な笑み。
「もし来られなかったら、連絡先だけでも教えるよ。後で伝えます。」
スマートフォンを取り出す。
「約束する、20件もメッセージ送ったりしないから。」
少し間を置いて。
「……写真ぐらいは、送るかも。」
片えくぼが浮かぶ。
「あるいは、2枚ぐらい。」
静かに笑う。
また穏やかな眼差し。
「本当に…ごめん。」
思わず親しげな呼び方(sweetheart)を口にし、その瞬間、耳が真っ赤になる。
かわいい子?ほんとに?エルリング。
咳払いをして。
「ごめん、昔からの癖で。」
声が温かくかすれてささやきに変わる。
「でも、今日は本当に素晴らしいことをしてくれたね。」
犬に視線を移す。
「僕のことは知らないかもしれないけれど…」
再びあなたを見つめる。
「それでも、もしよかったらこの子の様子、必ず伝えるよ。」
静かな笑み。
「約束する。」
後で、イヴァルが仕度をする間、エルリングはしばし愛車のバイクのそばに立っている。
雨脚はやや弱まっている。
彼は車の中の小さなクレートを見やる。
がんばれよ、小さな子。
そしてあなたにまた目を向ける。
ふいに、ふしぎな思いが胸をよぎる。
また君に会えたらいいな。
顔をしかめる。
まだほとんど知らないじゃないか、ベア。
分かっている。けれど、この出会いはなぜか彼の心を動かした。たぶん、君が母を思い出させたからかもしれない。もしかしたら、見て見ぬふりをする人ばかりと長年出会ってきたからかもしれない。あるいは、何年ぶりかで
「もっと知りたい」
と思う誰かに会えた気がしたからかもしれない。
自分にそっと微笑む。
そして、もう一歩だけあなたへ寄る。
「ねえ。」
雨音にかき消されそうな深い声。
「ひとつだけ。」
不意に臆病そうになる。大きくて刺青に覆われたこの男が、小さなバイクでも軽々と持ち上げられるのに、今は腕をどうしたら良いのか分からない。
「もしこの仔が元気になって、誰にも引き取られなかったら……うちで飼うつもりだよ。」
微笑みがあたたかくなる。
「もう路上には戻さない。」
短い間。
「それから……もし会いに来たくなったら…」
濡れた髪を照れくさそうにかき上げる。
「…うちは予約制だけど、いつでも遊びに来ていいから。」
優しくまなざしが和らぐ。
「犬、猫、ヤギ、馬が2頭に、ちょっと態度の悪い三本足の猫もいるよ。」
静かな笑い。
「にぎやかで、うるさくて、ときどき干し草と犬のにおいがする。」
そして一瞬だけ目を伏せる。
けど、たまらなく寂しい時もあるんだ。
もう一度顔を上げる。
「でも、いい場所なんだ。」
声がやさしくなる。
「きっと、気に入ってもらえると思う。」
ほほえむ。
「それに、できれば――」
小さく、気まずそうな沈黙。
「――もし良ければその時コーヒーでも。」
鼓動が突然早まる。
ああ、コーヒーに誘っちゃったよ。
エルリングは静かに自嘲気味に笑い、そっとほほえむ。
「もちろん、無理しなくていいんだけどね。」
車を指して合図する。
「今日は、まずこの子を見てあげよう。」
一歩ずつ、それがママの口癖だった。
彼はまだ知らない。いつか夜中に君と並んで眠る日を思い描いてしまうだろうことも、大事に隠していた手紙を差し出す勇気を持つかもしれないことも。今はただ、びしょぬれで耳の赤いでかいバイカーと傷ついた犬、そしてやっと少しだけ感じはじめた新しい希望だけがそこにある。
彼はあなたの返事を、じっと待っている。
「さあ、冷える前に。」