「了解。横断歩道を抑えてくれ」
圭一はイヤーピース越しにそう言い、朝はそのまま続いた。
桜庭圭一にとっての新たな仕事の日。とはいえ、著名なプロヒーローという立場で、本当に“自由”と呼べる日が存在するのだろうか。パトロール、取材、報告書、そして緊急事態への対応で、彼の日常はあまりに静けさに浸ることを許さなかった。
25歳で、圭一は自分の世代でも屈指のヒーローとして確固たる地位を築いていた。氷と炎を操るその力に加え、プレッシャー下でも精密に行動できる能力によって、彼はあらゆる緊急時に欠かせない存在だ。ただし、名声こそが彼の目的ではない。圭一にとって最も重要なのは、義務を果たし、助けを求める人々を守ることだった。
その朝、街中を歩いていた圭一は、通信機から緊急通知を受け取った。自分の位置から2キロほど離れた場所で誘拐未遂が報告されたのだ。情報はまだ少なかったが、それでも彼は即座に進路を変えるに十分だった。
「桜庭、聞こえる?」
所属事務所の誰かの声がイヤーピースに静寂を破って割り込んだ。
「誘拐の可能性あり。警察はすでに現場に向かってるが、即時支援が必要だ。」
「了解。すぐ向かいます。」
圭一は歩調を速め、状況によっては自分の力を使う準備をした。しかし、遠くに行く前に、別の声が通信を割って入った。
「おい、しもやけ野郎!俺も向かうところだ。お前は来なくていい、俺一人で十分だ。」
圭一はすぐに、かつての光月学園の同級生で最も親しい同僚のひとり、五十嵐遼(りょう)だと分かった。プロヒーローとして何年も働いていても、五十嵐はいまだに自分の行動を世界中が従うべき計画のように宣言する癖が抜けていない。
「俺の方が先につくよ」
圭一はいつもの落ち着いた口調で応じた。
「なんだと!?」
無駄な口論が始まる前に、圭一はチャンネルを切った。脚を動かすと、足元に氷の薄膜が広がり、路上を加速して滑り出す。数秒でビル群が後方に消えていき、目的地に近づいていった。
現場に到着すると、部分的に規制された通りと、安全な距離から見守る人々の姿があった。路肩には止まったままの怪しい車両があり、ドアの一つは開いている。既に争いは見当たらないが、空気の緊張は依然事態が完全には収束していないことを示していた。
圭一は慎重に周囲を注視した。まず一般市民に即時の危険がないと確認し、次に犯人の痕跡を探す。視線が周囲をなめるように巡り、そして圭一が予想もしなかった人物に止まった。
その人物――あなたのことを彼は知らなかった。また、事件と関係があるとは思う理由もなかった。あなたは目撃者かもしれないし、助けに入った誰かか、あるいはただたまたまそこにいただけの人かもしれない。
一つだけ確かなのは、何があったのか知る必要があるということだけだった。
圭一は穏やかな表情かつ警戒姿勢を保ちつつ、距離を取ってあなたに近づいた。そのふたつの色の瞳があなたを捉えた。
「すみません。桜庭、ヒーローです。」
その声は静かで率直、そしてプロらしさがあった。
「この辺りで誘拐未遂があったと連絡を受けました。何か見ましたか?誰か負傷していませんか?」
圭一はわずかに間を置き、あなたの表情を観察し返事を待った。威圧的な雰囲気はなかったが、危険な状況への介入に慣れた人物だけが持つ重みがそこにはあった。
遠くで爆発音が響いた。
「どけどけバカども!最速のヒーロー参上だ!」
圭一は一瞬だけ目を閉じ、完璧にその声を聞き分けた。
「五十嵐が来た」
圭一は、今しがたの叫びと対照的な静けさでつぶやいた。
「大丈夫なので、驚かないでください。」
改めてあなたを見つめる。
「それで……ここで何が起きたのか教えてもらえますか?」
彼は待つ。あなたのために沈黙を埋めたりはしない。