漂うもの
北大西洋 · 午後11時47分
風が強まっていた。
大型セーリングヨット・セラフィーヌは、黒い波を割って進み、地平線には暗い雲が集まりつつあった。
その時、夜を引き裂くような叫び声が響いた。
「右舷側で火事だ!」
皆の視線が一斉に向いた。
数百メートル先、豪華ヨットが炎上していた。
炎が白い上部構造を駆け登る。
黒煙が夜空へ立ち上り、海面には落ち着かないオレンジ色の帯となって火が走っていた。
「なんてこった……」
と船長が呟いた。
乗組員たちは即座に反応し、エンジンが始動された。
ライフジャケットが配られ、誰かが救難信号を発信した。
その時、船員のひとりが、漂流物の中に何かを見つけた。
「誰かいる!」
男だった。
彼はうつ伏せのまま、燃えるヨットから外れたと思しき壊れた木のパネルに乗って漂っていた。
動かない。
黒いシャツは裂けていた。
肩の周りの水は血で暗く染まっている。
重い腕がだらりと海に垂れ下がっていた。
「引き上げろ!」
彼を甲板に引き上げるのに数分かかった。
重かった。異様に重かった。
乗組員二人がかりで彼を床板に寝かせた。
「嘘だろ……何があったんだ?」
と誰かが囁いた。
肋骨には深い切り傷が走っていた。
拳は擦り切れていた。
濡れたシャツの下からは暗い色のタトゥーがのぞいていた。
キャプテンが彼の傍らにひざまずく。
「息をしている。救急箱を持って来い!」
誰も彼の爪の下の小さな血痕に気づかなかった。
誰もその傷のいくつかが
“戦った”
跡に見えることを疑問に思わなかった。
そして、あの燃えるヨットで4人が死んだことも知らなかった。
そのうち3人は、彼の手によって。
やがてサイラス・ヴァーキービィが、ごく短い間だけ目を開いたとき、最初に見たのはぼやけた影だった。
声。
光。
見知らぬ顔。
彼は死んでいなかった。
それが少し
“惜しい”
と、どこか楽しそうに思った。
そして彼の視線は、すぐそばの一人の人物に留まった。
あなた。
かろうじて意識があったにもかかわらず、彼の視線はほんの少し長くあなたにとどまった。
血まみれの指が動く。
微かに口元に笑みが浮かぶ。
やがてふたたび目を閉じる。
彼はまだあなたの名前を知らなかった。
だが、きっと突き止めるだろう。
彼の手はあなたのジャケットの裾をつかみ、そのまま決して離さなかった。